11.22.16:53
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12.07.21:23
幻想の詩―紅魔の連―#9
紅魔館の面々で連載物。
冷たい扉の最深部。
最初はただ好奇心だったのかも知れない。
パチュリーは大して集中もせず目の前に広げた書物に目を通していたが、頭の中では書面にある魔法陣の構築式だの、その考察だのといった内容とは全く違った事が巡っていた。読書と銘打たれた、ただ思考の海に沈むだけの行為は何時間も続いている。元来が時間に頓着のない気質だった所為か、それがパチュリーの苦になる事もない。
パチュリーはある満月の夜を思い返す。
幾度巡ったのかさえ判らない満月の中の、たった一日を思い出す。
その日は狼の遠吠えさえ聞こえず、雲一つ無い夜空が広がった、薄気味悪い夜である。
◆
パチュリーは無性に喉が渇いていた。本に集中し始めてから何刻経過したのかも判らぬほどに、自己の意識を外界から隔離していた影響か、それともただの偶然だったのか、とにかく喉が渇いて仕方がなかった。紅茶が注がれていたカップは最早底を付き、触れてみると夜気に当てられて冷たくなっている。自分の部屋には給湯器具などなかったから、パチュリーは嘆息を交えながらも、まともに利用できる程度には片付けた台所へと向かうべく席を立った。
そうして部屋を出てみると、何処からか吹き抜ける冷たい隙間風が身体を撫でる。彼女は身震いをして、肩を両手で押えながら暗い廊下を歩いて行ったが、ある程度進んだ時に、珍しい顔と出くわした。
暗闇の中でも克明に映る紅い瞳と、ずるずると何かを引き摺る音と共に聞こえてくる声にならない悲鳴のような呻き声。パチュリーはすぐにそれが今日の獲物なのだと悟った。
「何時も大変ね。持って行く事ぐらい手伝ってあげても好いんだけど」
パチュリーは冷たい眼に向かってそう問いかける。廊下を引き摺られている何者かの声が「ひっ」と短い声を上げる。どうやら幼い子供のようで、高温の声から女の子だと判じるのも容易かった。
けれども紅い瞳の主はパチュリーを一瞥しただけで、その隣を通って行ってしまった。引き摺られている少女は、パチュリーの横を連れられて行く時に、がちがちと歯を震わせながら、誰かに助けを求めているような眼差しを向けていた。しかしパチュリーが幾度と見たこの光景を、あえて今日この場で咎めようはずもなく、彼女はただ連れられて行く少女に無感情な瞳を向けただけであった。
しかし、今日は満月の魔力に中てられたのか、何故かその行く先が気になった。少女が心配な訳ではなく、本に対して向けるような好奇心が芽生えた。元より自分を殺して貰う為に此処へ来て、遂に殺されずに生き延びてきた。それならあの吸血鬼の少女を挑発するのも好いかも知れない。そんな事を考えて、既に去って行った吸血鬼の後を追ってみようと思い立つ。喉の渇きは消え失せている。パチュリーは軽い足取りで、獲物と鬼が去って行った方向へと歩き出した。
ただでさえ暗い館の中は、真夜中ともなれば殊更に暗くなる。頼りになる明かりと云えば窓から差し込んでくる満月の青白い光だけで、パチュリーは白い頬をその光に照らされながら長い廊下を歩いていた。が、歩けども一向に二人の姿が見えてくる事はなかった。それどころかこうして歩いている先に誰かいるのかでさえ定かではない。自分の感覚が狂ってしまったのだろうか、とパチュリーは首を傾げながら、それでも歩を進める。
「こんな場所、あったかしら」
そうして廊下の突き当たりに辿り着いた時には、運動不足の足は微かな疲労を訴えていた。目の前にはさほど大きくもない鉄の扉がある。そうして、それはこの館の内に存在する他のどの扉よりも不格好だった。豪奢な装飾が施されている訳でもなく、ただ重苦しい雰囲気を纏う気味の悪い扉である。その上、その扉には幾つもの錠が掛けられている。決して開けてはならないと示唆されているかのように、様々な形をした鍵がかけられている。
パチュリーはそれだけで、今宵の冒険は成果あるもののように思えた。そうしてその満足感の次には、その扉の向こうにある物が気になった。どの部屋も乱雑に放置されたままであるにも関わらず、この部屋にだけは厳重な施錠をしてあったからそれも余計である。一種宝物を先んじて見付けたような心持ちで、見付けたからには宝箱の蓋を開けねば気が済まない。元より自分はパンドラの箱を開けてしまった愚者なのだ。恐れる事など何もあるまいと、パチュリーは厳かな鍵を物ともせず、手を翳しただけで開けてみせると、ぎいと嫌な音を立てて開いた扉の向こうへ足を踏み入れた。
「……」
そこにはただ一直線に地下へと続く階段があった。窓さえない長い階段は闇に飲まれて一寸先でさえ見通せない。パチュリーは手の平の上に灯した焔を明りにして、外よりも更に冷たい空気が蔓延する階段を降りた。黴臭い臭いと、埃の臭いとが彼女の身体を絶えず苛んだが、この先に不思議な魅力を感じて、引き返す事もしなかった。
やがて長々と続いていた階段を降りて行くと、彼女は漸く一つの部屋の前に行き着いた。これもまた、先の物と同じように重苦しい鉄の扉である。所々が錆び付き、すっかり風化しているが、それでも扉としての役割は果たしているようであった。パチュリーはそこも容易く開けて、開いた扉の向こうへ入る。
そこにはやはり闇が広がっていた。身体を圧迫しているかのように濃密な闇に思われる。此処に漂う空気が尋常でないほど冷たく感じられる。パチュリーは無意識の内に警戒心を強めた。何かとてつもなく危険な存在が、常に自分の喉元に歯牙を掛けているが如く、絶え間ない死の恐怖が頭を掠めている。――ところへ、じゅる、という何かを啜る音が、不気味に響き渡った。
「誰か居るの?」
そう尋ねても返事はない。彼女の手の平の上に灯った火は、この闇の前に無力である。自分の周りを少しは照らしてくれても、如何ほどの広さがあるのかも判らない部屋の中は到底見渡せない。
「だぁれだ」
そんな時、パチュリーの耳に聞こえたのは悪戯をする時のように人を小馬鹿にした声であった。パチュリーは驚いて辺りを見回したが、それでも声の主は見えない。ところへまた、「だぁれだ」と聞こえてくる。パチュリーはいい加減に我慢の綱が切れて、手の平に魔力を集中させた。――すると、途端に小さな焔は燃え盛る火焔へとと変化した。赤い焔は闇を切り裂き部屋を照らし、彼女の周囲にある物全てを暴き出す。
そうして、壊された家具類が現れる中で、パチュリーは誰か居るのかと周囲一帯を見尽くした。部屋の広さは驚嘆に値するほどである。天井は遥か高くにあり、部屋の最深部は一体何処にあるのだろうかと思わせる。そんな中、最後に彼女が目にしたのは、自分の前にただ一つ置かれた椅子の上で、膝を抱えながら気味の悪い微笑みを浮かべた、小さな少女の姿であった。その少女はパチュリーと目が合ったのを確認して、口端を吊り上げる。そうして、
「後ろの正面、だぁれだ」
と嬉しそうに云って、パチュリーに向かって手を差し出すと、その手を握りしめ、拳を作った。
――続
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