11.22.10:25
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08.24.22:50
流し雛
後書き。
後書きとは関係ないのですが、創想話での後書き欄の使い方については賛否両論あるようです。私は特異(或いはそうでもないのかも知れませんが)使い方をしているようですが、もしもあそこに本当の意味での後書きを書いてしまうと、きっと読後の余韻をぶち壊すくらいに長々と綴ってしまいそうなので、こちらに書いています。尤も余韻を長引かせる為の打算的な意味合いもありますが。
今回の作品は物語の筋が全て繋がっている短編集になっています。全てがそれぞれの登場人物の語りによって進められて行く為に、書き込み量が多過ぎて、全体的に詰めてしまった感があるので、冒頭で引き返した人も、そうしようと迷った人も居ると思いますが、ひとまず全て読み終えて下さった方に感謝します。
ありがとうございました。
最後、鍵山雛は誰が一番不幸だったのか、と問います。私はそれに対する皆さんのお答えを聞いてみたいと思ったから、このような台詞を後書き欄に載せさせて頂きました。その答えの選択肢は四つ、本作を読んで下さった方には、どう感じられたでしょうか。
一.不幸な男
彼は母を亡くし、更に成長するにつれて愛する人を二人殺されます。そうして知らぬ間に親友に裏切られ、信じていたその親友も行方不明となってしまいます。それでも新たに自分を支えてくれる人が現れますが、その結末が果たして一概に幸福と云えるものでしょうか。起きた事件に関して考えれば、彼は一番不幸な人間かも知れませんが、それが不幸の度合いを示すものだとは、少なくとも私は思っていません。
二.残された女
彼女は誰より愛した姉を何者かによって殺されます。ともすればとんだとばっちりを受けた一種の災厄でしかありません。そうして姉と結ばれようとしていた男に恋心を抱いていて、姉の死後、その感情に悩まされ続けます。それこそ死を選ぼうとしたほどに、その苦しみは凄まじかった事でしょう。生前の姉の様子を見ておきながら、男に対する恋心を抑えられなかった彼女は一番不幸だったのでしょうか。それとも結末に幸福を見出した彼女こそ、一番幸せな人間だったのでしょうか?
三.人殺しの男
彼は親友に対する劣等感、親友の恋人に対する歪んだ愛情によって、殺人の味を知ってしまいます。それでも尚親友を想う気持ちを忘れる事が出来ぬまま、魔に堕ちたかと思われた心と、未だ残る親友への想いとの挟撃に晒されて、心中では苦しんでいました。歪な感情を抑え切れず、本当はしたくなかった罪を重ね、しかし最後には更なる罪を重ねずに済むよう、鍵山雛によって殺された彼が浮かべたのは安らかな表情です。
親友を想っていたのに死んだ彼が、或いはただ一人もたらされた死という結末を見れば、彼が一番不幸だという事になるでしょうか?
四.鍵山雛
彼女は人の悲しみを受け、彼らの体験した事をさも自分が体験した事のように涙を流します。そうして彼らの身体に纏わり付く厄を祓い、自らの身体に纏います。それから誰とも関わる事無く妖怪の山の何処かで、ひっそりと暮らしているのです。人の身より厄を払うありがたい神様として、人々に信仰されながら、それでも孤独なままに。彼女の存在意義を決めつけるのは間違った事かも知れませんが、私はそう解釈しております。
しかしそうだからこそ、人の数多持つ厄を抱えて来た彼女が一番不幸な者になるのでしょうか?
以上は作者としての解釈の一つでしかありません。これが正しいとは限らないし、これを正解だと定めれば、物語事態が縮小してしまうでしょう。だからこそ、私はこの物語に対して、読者の方が一人一人答えを持っていて欲しいと考えています。そうしてその考えを少しだけでも教えてくれたなら、とても喜ばしい事だと思っています。
最後に私の答えを一つ。
人は誰しも不幸と幸福と隣り合わせに生きているものです。その不幸、或いは幸福に確定的な度合いなどなく、全ては当人の主観でしかありません。また他人からしても、それはその人から見た主観でしかありません。幸福や不幸とは酷く曖昧なものです。これが一番だと定める事も出来なければ、これが最悪だと定める事も出来はしません。だからこそ、一番の不幸者、幸福者など何処にも存在しないと思うのです。
最後の後書きに添えられた鍵山雛の問いかけは、自らも不幸な神だと考える雛が、しかし絶対に変わる事のない真理――全ての不幸と幸福は当人の主観によって変わる事――を前にして感じた矛盾を、少しでも判然とさせる為に放った助けを求める叫び声なのです。人の厄を祓い自らの身に纏う事で感謝される事に対する幸福、生涯孤独を貫かなければならぬ不幸、どちらが自分にとっての本心なのか、判然とさせたかったのです。
酷く曖昧な解釈の一つですが、作者として思った事はそんな事でした。
それでは何時になく長々と綴ってしまい、申し訳ありませんでした。
恐らく今回の作品は、今までになく主題を意識して執筆したものでした。それ故か執筆も楽しむ事が出来たし、自由な創作者としてとても満足出来ます。評価如何に関わらず、そういう事も幸福の内の一つなのでしょう。それでは、これにて。読んで下さった方々、本当にありがとうございました。
楽しく読むことが出来ました。とても素敵なお話でした。
こちらには、話題に興味があったので書かせていただきます。
幸福とは主観と客観の二つの足に支えられた概念だと、私は思っています。
つまり、当人が幸せであればいいということではなく、周囲からしても幸せだと思えるものです。
周囲からすると幸せなものであり、当人も幸せだと思っていれば、これは間違いなく幸福といえるでしょう。逆に周囲からも当人さえも不幸だと思うなら不幸としかいえません。
難しいのは、当人だけが幸せであると思っているものです。
人間は幸福を追求するべき生き物だと思っています。しかし、幸福とは先に述べたように主観と客観の混合しているもので、自身だけを本位とした結果は幸福とはいい難いものになるでしょう。当人だけの幸福が誰かの不幸であるかもしれないのですから。
この問題に決着をつけるには一人の人間だけで考えず、周囲を巻き込む必要があると思うのです。
まず、人間というのは自分が幸せであったときにわざわざ他人を憎むことをしません。逆に、自分が不幸せだと思っていれば、誰かを妬ましく思うかもしれないのです。
つまり、幸せを分けられる余裕を持つことができる状態こそ幸福であると言えるのではないのでしょうか。他人の幸福を願う者こそ幸福なのではないかと。
お話であれば、男は過程でこそ酷い傷を負ってしまいましたが、その先で幸福を手に入れました。人柄によるところもあると思いますが、彼はその幸福を自分だけのものとしないでしょう。
女の妹も同様です。
男の親友は、男のことを想っていました。それがどの方へと向かってしまったかについて考えれば不幸なのかもしれません。しかし、死を迎えて安らかな表情を浮かべたのはやはり親友を想っていたからなのではないか、そう考えれば男の親友も幸福であるといえるのではないでしょうか。
鍵山雛は神様であり、人間の幸福と彼女の幸福が一致するとは思わない、と考えています。こう考えるのは逃げでしょうか。
しかし、あえて同じとするならやはり彼女も幸福なのだと思います。
神様が世にいるからこそ、幸福を分け合って人間は生きることができるのでしょう。いなければ、不平不満不幸不安を互いに押し付けあうだけになるのかもしれません。
彼女あっての彼らの幸福、彼らあっての彼女の幸福。
皆々が幸福であるというのが私の意見です。
誰が不幸であるか? という質問に対してずれている回答ですが。
氏のお話を読み、思ったことを押し込めることができず、つい書き散らしてしまいました。
長々と拙い文、失礼しました。
そして、次のお話を楽しみに待っています。
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