11.23.03:40
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12.27.16:14
「無題」著者、香霖
東方創想話投稿五作品目。
後書き。
年内に仕上げる事が出来、何とか間に合ったと安堵の溜息を吐きながらこの後書きを書いております。
年始年末は色々と忙しくなる予定でして、恐らく創想話への投稿はおろかこちらの更新もままならなくなると予想されますので、そういった意味でも年内の投稿は間に合ってよかったです。
それでは後書きを。
まず初めに、私小説という分類は勿論霖之助の、という意味です。
私が今回の作品に於いて定めたテーマは純粋なる愛。
それらを表現できて、読んで下さった皆様に伝わったかどうかが心配です。ただ、真の愛とは伝わりにくいものなのかも知れません。当人から見た愛情が他人から見れば普通でない事があるように、彼女らの間にある愛は迂遠な道のりを辿った末に漸く物事の本質を示す紫の言葉のように曖昧だったのかも知れません。
愛が世界を救うなどという大袈裟な言葉を聞いた事がありますが、作中の霖之助はまさに、その愛によって救われたのかも知れません。他人からしてみれば、呪いに他ならない呪縛が、彼にとっての愛である可能性も否定できないのです。霖之助が著したこの小説を読み、彼らの間にあった愛は、貴方にはどう感じられた事でしょう。――少なくとも私は、真直ぐ過ぎる愛だったと思います。
追記
結構疑問に思われている作品名の「香霖」の部分の説明に。
一応前の記事のコメントの所にも書いておきます。
まず、何故本名を作品名に入れなかったのか、に対してですが、これは今説明しても恐らくは言訳染みたようになると思いますので、不快に感じられる方がいましたら読まない事をお勧めします。
考えてみて欲しいのは、作中の霖之助――つまり私が描いた霖之助は自分の想いを素直に伝えるような人物だったか、という事です。彼は自覚している問題ですら遠まわしに考え、他者に鈍感だと評される人物ではなかったでしょうか。ことに霊夢に対してはそれが浮き彫りになっていることだと思います。
そういった所を踏まえると、段々作品名に込められた意味が判ってくるのではないでしょうか。少なくとも私はこの作品の、作品名から物語の中(最後のエピローグ以外)に至るまでが霖之助によって書かれたものとしています。彼の云った通り、これが本当に燃やされるものであるのなら、自分が執筆したと示す為にわざわざ自らの名を書くでしょうか。自分の想いの全てが込められた作品に、しかも後書きに書かれている「博麗霊夢に宛てて、僕の全てを捧げる」という文言から考えて、本当にこれが誰の目にも触れられず燃やされるでしょうか。
彼は自分が犯した罪悪を記したと冒頭に書きました。そうしてその罪悪の中心にいたのは、常に霊夢と霖之助の二人でした。即ち、この作品は、自己に満足をもたらす為に、今は亡き霊夢に宛てた手紙だったと考えられるのです(これはそうあって欲しい私の願望ですが)。
しかし素直でない彼は本名を記すのを憚り、自身のあだ名を思い出し、それを採用する。現実の小説でも、筆者の本名がそのまま示された物は殆どないと思います。もしかしたらそういう事実から、執筆者としての立場を意識したのかも知れませんし、先の考察のように少なからず恥じらいがあったのかも知れません。
私は小説の真の終わりは読者の補完によってもたらされるものだと考えています。つまり、記された結末から読者の想像によって作られるその後こそが本当の終わりだと思います。他力本願だと思われるのは必至でしょうが、そういう思想の元に作られたからこそ、この作品名が『「無題」著者、香霖』となった所以になるのです。
彼の私小説がその後どうなったのか、それは勝手ながら読んで下さった皆様の想像にお任せします。私の考えは、一つの解釈でしかありませんから。
ですので、私は何も考えずに作品名をこうしたのではないという事を、一応明言します。最初に記したとおり言訳染みていると思いますので、厳しい意見などは覚悟しているので、「それはおかしい」といったような事がありましたら、どんどん指摘して下さい。それを次からの作品の糧にして行きたいと思っています。
後書き。
年内に仕上げる事が出来、何とか間に合ったと安堵の溜息を吐きながらこの後書きを書いております。
年始年末は色々と忙しくなる予定でして、恐らく創想話への投稿はおろかこちらの更新もままならなくなると予想されますので、そういった意味でも年内の投稿は間に合ってよかったです。
それでは後書きを。
まず初めに、私小説という分類は勿論霖之助の、という意味です。
私が今回の作品に於いて定めたテーマは純粋なる愛。
それらを表現できて、読んで下さった皆様に伝わったかどうかが心配です。ただ、真の愛とは伝わりにくいものなのかも知れません。当人から見た愛情が他人から見れば普通でない事があるように、彼女らの間にある愛は迂遠な道のりを辿った末に漸く物事の本質を示す紫の言葉のように曖昧だったのかも知れません。
愛が世界を救うなどという大袈裟な言葉を聞いた事がありますが、作中の霖之助はまさに、その愛によって救われたのかも知れません。他人からしてみれば、呪いに他ならない呪縛が、彼にとっての愛である可能性も否定できないのです。霖之助が著したこの小説を読み、彼らの間にあった愛は、貴方にはどう感じられた事でしょう。――少なくとも私は、真直ぐ過ぎる愛だったと思います。
追記
結構疑問に思われている作品名の「香霖」の部分の説明に。
一応前の記事のコメントの所にも書いておきます。
まず、何故本名を作品名に入れなかったのか、に対してですが、これは今説明しても恐らくは言訳染みたようになると思いますので、不快に感じられる方がいましたら読まない事をお勧めします。
考えてみて欲しいのは、作中の霖之助――つまり私が描いた霖之助は自分の想いを素直に伝えるような人物だったか、という事です。彼は自覚している問題ですら遠まわしに考え、他者に鈍感だと評される人物ではなかったでしょうか。ことに霊夢に対してはそれが浮き彫りになっていることだと思います。
そういった所を踏まえると、段々作品名に込められた意味が判ってくるのではないでしょうか。少なくとも私はこの作品の、作品名から物語の中(最後のエピローグ以外)に至るまでが霖之助によって書かれたものとしています。彼の云った通り、これが本当に燃やされるものであるのなら、自分が執筆したと示す為にわざわざ自らの名を書くでしょうか。自分の想いの全てが込められた作品に、しかも後書きに書かれている「博麗霊夢に宛てて、僕の全てを捧げる」という文言から考えて、本当にこれが誰の目にも触れられず燃やされるでしょうか。
彼は自分が犯した罪悪を記したと冒頭に書きました。そうしてその罪悪の中心にいたのは、常に霊夢と霖之助の二人でした。即ち、この作品は、自己に満足をもたらす為に、今は亡き霊夢に宛てた手紙だったと考えられるのです(これはそうあって欲しい私の願望ですが)。
しかし素直でない彼は本名を記すのを憚り、自身のあだ名を思い出し、それを採用する。現実の小説でも、筆者の本名がそのまま示された物は殆どないと思います。もしかしたらそういう事実から、執筆者としての立場を意識したのかも知れませんし、先の考察のように少なからず恥じらいがあったのかも知れません。
私は小説の真の終わりは読者の補完によってもたらされるものだと考えています。つまり、記された結末から読者の想像によって作られるその後こそが本当の終わりだと思います。他力本願だと思われるのは必至でしょうが、そういう思想の元に作られたからこそ、この作品名が『「無題」著者、香霖』となった所以になるのです。
彼の私小説がその後どうなったのか、それは勝手ながら読んで下さった皆様の想像にお任せします。私の考えは、一つの解釈でしかありませんから。
ですので、私は何も考えずに作品名をこうしたのではないという事を、一応明言します。最初に記したとおり言訳染みていると思いますので、厳しい意見などは覚悟しているので、「それはおかしい」といったような事がありましたら、どんどん指摘して下さい。それを次からの作品の糧にして行きたいと思っています。
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何と言うか……言いたいことはほとんどあっちで言ったのでこれだけ……タイトルが香霖なのは、仕様ですか?
森近霖之助だから著者、香霖は違うような
それ以外は完璧
タイトルが香霖なのは結局、小説を燃やせず魔理沙に見つかってしまったってことですかね?
それにしても貴方の書く妖怪の少女たちは艶かしくてすごく好きです。
上の方の解釈がとてもいい・・・
そうであったら、と思います。
それで、実際どうなのでしょう?
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